諫早建設の日常酒井ブログ
2021/07/10
ほんの少し前までここを先途と咲き誇っていたアジサイ。
いつの間にかほとんど見なくなってしまった。
一昨年まではアジサイの季節には必ず妻とどこかに「アジサイ見物」に出かけていた。
それは妻が「アジサイ大好き!」だから。
殆どが北鎌倉や箱根だったのだけれど、よせばイイのに5年くらい前に「名所」として有名な長谷寺のアジサイを観に行った。
大枚の見物料を取られて、2時間近く待たされて、結論としては、
「大したことない!」
「むしろその辺の道端や小さなお寺の方がずっとキレイ!」
と、いうもの。
箱根では「ガラスの森美術館」で斜面に咲き誇る真っ白なアジサイ「アナベル」を堪能した。
クリスタルガラスをアジサイのように設えて、陽光にキラキラと輝く様は実に美しく、コロナ前までは毎年のように訪れていた。
すぐ近くの「星の王子様美術館」や「強羅公園」では時期に依ってはバラとアジサイが同時に楽しめる、という贅沢さも味わうことができる。
で、今回書きたかったのはアジサイの「最盛期の美しさ」ではなくて、終盤の「裏寂しさ」。
我が家のすぐ近くにもその名も「アジサイ」という、介護施設があって、駅への行き帰りにその美しさを楽しませてもらっているのだけれど、最後の方はどうしても煤けてみすぼらしくなってしまい、直視できないほど。
そう考えるとやはりサクラは見事!と、言う他はない。
正に「盛り」でパッと散って行く。
その散り様まで絵になるのは、昔から人の生き様にも例えられるのがよーく分かる。
アジサイも、心ならずもいつまでも茎にしがみついて醜態を晒すより、サクラのように最後はパッと散りたいのではないだろうか。