諫早建設の日常酒井ブログ
2022/05/10
今年も何となく「無事終わった(?)」感のある「母の日」。
随分前のブログでも書いたけれど、私はこの日が大キライ。
気のせいか、最近ではTVでもあんまり、殊更に「母の日」を言わなくなったような気がするけど、もしかしたら私ができるだけそこから距離を置こうとしているからかもしれない。
今ではあんまりそういう事も言われなくなったけれど、私が子供の頃(もう60年近く前)は「お母さんが居る子は赤いカーネーション、お母さんが居ない子は白いカーネーション」などという、実にバカげた習慣、と、いうかルールのようなものがあった。
当時は別にどうとも思わなかったのだけれど、長ずるに従ってモノスゴク違和感を覚えるようになった。
そもそもの「母の日のカーネーション」は「白」だったらしい。
アメリカの女性が亡き母を偲ぶために墓前に白いカーネーションを供えたのが始まり、ということを読んだことがある。
で、色々あって、日本ではいつの間にか上記のように「お母さんが居る子は赤いカーネーション、お母さんが居ない子は白いカーネーション」と、なったようだ。
最近ではカーネーションの色も多様化して、必ずしも白いカーネーションがクローズアップされることはないようだけれど、そもそも「カーネーションをあげる相手=母」が居ない子はどうするのだろう。どう思っているのだろう。と、考えてしまう。
ウチの子供達も小さい頃は幼稚園だか、小学校だかで「おかあさんありがとう」なんて書いたものをつくって持って帰ってきて、実際、今でも部屋の壁に飾ってあったりもする。
これって、母の居ない子にはどれだけ残酷なことなのだろう、と、当時はそれほどでもなかったけれど今は強烈に思う。
因みに今でも幼稚園や小学校でこういうバカげたことを遣らせている先生(学校)は居るのだろうか。
ある程度歳を重ねればそういうことも理解して呑み込むこともできるのかもしれないけれど、小さいウチはまずムリ。
むしろ妙に大人びた子は、大人たちに気を遣わせないように殊更気にしていないようにも振舞ってしまうらしい。(これもドラマの世界かな?)
幸い、当時のウチの子供達の近くにはそういう子は居なかったようだけれど、この多様化が叫ばれて久しい昨今、もうこんな「世の中を挙げて(?)」のバカげた行事(?)は無くして、各家庭ごとに静かに感謝を伝えたり、偲んだりすればいいのに。
私の身近にも様々な事情で母親の居ない家庭も出てきている中、毎年、母の日はできるだけサラッと流して、そういうことで寂しかったり悲しかったりという思いをする子が一人も居なければいいなあ、と、思っている。